レトロ万華鏡

昭和レトロなものいっぱいのブログです。

古いカラー絵葉書から22 小川眼科病院

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こちらもとある方から頂いた戦前の絵葉書です

いただいたとき、この写真の奇妙さに視線が止まりました。

だってそうでしょ?

「小川眼科病院」ってタイトルでビルの屋上のペントハウスの前で子供たちが記念写真撮っているし、別カットで素っ裸の子供が紫外線照射治療らしきものを受けている。

なんじゃコリャ⁈って思いますよ。

生命保険屋の本社ビルもですが、どう考えても観光名所でも有名な駅でもないビルが絵葉書になっているのは不思議ですよね。

それにしても、「小川眼科病院」ってどこの病院?

調べてみましたよ。

1931年に湯島で開業した入院施設まである大きな眼科だったんです。

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(小川眼科病院の建物はテナントビルとして健在だった)

そのビルが東京大空襲を逃れて、今も残ってます。

開院した初代院長は小川剣三郎。

実はそのお兄さんがとんでもない人でした。

何と日本初のステンドグラス作家小川三知(1867〜1928)です。

そのため単なる個人病院とは思えない立派なステンドグラスが入っています。

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(玄関の立派なステンドグラス)

かつてはビル1棟丸ごと入院病室付きの眼科でした。

鉄筋コンクリート3階地下1階のかなり立派な個人病院でしたが、親族への相続の問題があって、ビル自体は黒沢ビルというテナントビルになり、眼科は1階だけになりました。

国の登録有形文化財にもなっているためか、黒沢ビルでは維持管理費三千円、月1回予約制で一般公開してきました。

今はコロナ対策で公開を中止しているようですが、コロナが落ち着いたら、再開する計画のようです。

古いカラー絵葉書から21 旅順白玉山塔

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日露戦争が終わったとき、乃木希典将軍と東郷平八郎元帥は大連の旅順にある海抜130mの丘「西官山」に日露戦争犠牲者の日本人2万人の遺骨を納めた慰霊塔を建てることにしました。

その名も「表忠塔」

西官山はその後白玉山とその名を改め、表忠塔は中華人民共和国になると「白玉山塔」と改名し、解体されずに残りました。

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(現在の白玉山塔)

高さ66.8mのこの塔は1909年11月に落成し、記念式典には乃木希典将軍が夫婦で出席しました。

砲弾型かと思ったら、コレ、蝋燭をかたどっているんですって。

この手の軍国主義を象徴するものは韓国では真っ先に撤去です。

中国は何故コレを遺したかなぁ。

2万人の遺骨が納められた慰霊塔なんかぶっ壊したら日本人のキョンシーにでも襲われるって思ったんでしょうか。

最初にこの絵葉書を見たとき、戦前の名古屋広小路、今の中区役所附近にあった「日清戦役第一軍戦死者記念碑」に見えました。

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(こちらは名古屋の日清戦役第一軍戦死者記念碑を似而非カラーシステムで着色したもの。そばには市電の起点がありました)

1901年に建てられだ日清戦役第一軍戦死者記念碑ですが、名古屋市電の起点に建てられたこともあって、名所となりましたが、交通量の多い交差点にあっただけに交通の邪魔になり、1920年に千種区覚王山日泰寺の境内に移築されたのでした。

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名古屋市千種区日泰寺境内に移された日清戦役第一軍戦死者記念碑)

似而非カラーシリーズ  福寿生命保険

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こちらもとある方から頂いた戦前の絵葉書です。

かつて名古屋にあったとみられる福寿生命保険ビルです。

これも保険屋の本社ビルが絵葉書なんですよ。

1908年に名古屋に本社を持つ生命保険会社として発足。

1942年に明治生命に吸収されました。

現在は明治安田生命の名古屋地域のどこかの営業所になっているはずです。

建物のスタイルは昭和初期の銀行建築みたいです。

断面が四角い柱状のオーダーが幾何学的に並んでいるのが建物の特徴になっています。

アールデコっぽいですね。

近いイメージの建物があります。

横浜銀行協会の建物です。

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横浜銀行協会)

おそらく名古屋大空襲で焼けたと思われます。

残っていたら、GHQがまず喜んで接収したでしょうから。

古いカラー絵葉書から20  大同生命肥後橋ビル

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こちらもとある方から頂いた戦前の絵葉書です。

大阪市西区江戸堀の大同生命肥後橋ビルです。

駅とか観光地化した建造物ではなく、保険屋の本社ビルが絵葉書って珍しいパターンですよね。

契約者に配ってたのかなぁ?

ビル自体はなかなか凄いんですよ。

1925年竣工で、建築設計はヴォーリズ建築事務所です。

モーリス持てばスーパースターも夢じゃない!…とは関係ありません。

ヴォーリス建築の有名どころなら、東京お茶の水の作家缶詰施設?の山の上ホテルとか、京都の高級中華の東華菜館本店とか関西学院大学のキャンパス辺りですね。

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山の上ホテル

このビルは鉄筋コンクリート9階建ですが、当初の設計では10階建てでしたが、建設中に関東大震災が発生。

耐震性強化のため9階建に変更したってエピソードが残っています。

空襲にも燃えず、進駐軍の接収も何故かされなかった大同生命肥後橋ビル、戦後まもなく、1、2階を大阪そごうに貸し出したことも。

戦前、戦後の大阪を象徴する見事なオフィスビルでしたが、1990年に解体されて新しいビルに建て替えられました。

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(今の大同生命ビル。低層階が細い!地震が来たら、ポッキリ行きますって)

この新ビル、低層階より高層階の方が床面積が広くて、大袈裟に言えば地面に突き立てたガリガリ君なんですよ。

こんなスタイルはハッキリ言って地震に弱いです。

阪神淡路大震災を経験したのにこんなの建てちゃってもう。

大正末のビルに耐震化工事をして残した方が良かったのになぁ!

古い絵葉書と今の大同生命ビルを交互に見て、ため息をつくのでありました。

似而非カラーシリーズ 大正時代の絵葉書をカラー化してみる3 名古屋松坂屋

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こちらもとある方から頂いた戦前の絵葉書です。

名古屋松坂屋は1910年に栄でオープンして、1925年に現在地に移転しました。

この建物はその1925年新築のもの。

この真新しくて綺麗なビルが名古屋大空襲で骨組みを残して丸焼けになりました。

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(名古屋大空襲で焼けた街。こちらも白黒写真を似而非カラーシステムでカラー化してみました)

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(増改築を繰り返した現在の姿)

増改築を繰り返してますが、階段と踊り場の大理石にこの1925新築の部分が残っています。

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(増改築で残った1925年に出来た階段部分)

それと屋上。

関東地方から消えたデパート屋上遊園地がまだ残っています。

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(名古屋松坂屋デパート屋上遊園地

その意味でも貴重ですね。

古いカラー絵葉書から19 大正時代のモデル

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大正時代の謎の美人画

特にキャプションなし。落款の代わりに$とだけ入っている。

非常に不思議な作品です。

広告ではなさそうですが、滑稽新聞の中の写真にこの女性が写っていたような記憶がありますが、誰だか特定できませんでした。

たぶん大正時代にポスターなどで活躍したモデルさんみたいです。

似而非カラーシリーズ 古い絵葉書をカラー化する 戦前のソウル女性

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(元は白黒。似而非カラーシステム発動の結果、セピア色っぽい色調になりました)

最近、とある方から戦前の絵葉書を頂きました。

その頂いた絵葉書の中の美人画、パート3でございます。

今回は戦前のソウルで発行されたチマチョゴリ姿の若い韓国女性の絵葉書です。

なんとなく昔の中日のピッチャー星野仙一に顔が似ているような……。

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(こっちはキーセンです。ドラマのものですが。雰囲気がかなり違います)

キーセンにしては髪型も服装も地味です。

白無地でもないので、両班の家のお嬢様のようです。

だとしたら、日本の女子大に行ったような人かもしれません。1990年代前半の韓国には日本語の堪能なお爺さんお婆さんがよくいました。

まぁ、昔は韓国でお年寄りから日本語で話しかけられることはよくありました。