戦時中に石油を連合国に止められた日本はガソリンエンジンのバスを木炭や薪を不完全燃焼させて発生したガスで走る木炭車、薪バスに改造して運行していました。
戦争が終わると走れなくなったバスがいっぱい。
ちょうどそんなとき進駐軍が軍用トラックを数多く払い下げました。
その払い下げ軍用トラックにバスボディーを架装したものが日本中を走りました。
パワーがとてもあったため、一部のバスは動かなくなったバスを牽引し走るようになりました。
それがいわゆる「親子バス」です。
似而非カラー化したら全体的にチョコレート色になりましたが、もしかしたら、米軍トラックはダークグリーン、後のバスは茄子紺だったかもしれません。
似而非カラーって青とか緑の色が出にくいもんで。
そのへんが「似而非(えせ)」たる所以ですね。
元の写真はこちら。→
http://www.bus.or.jp/110th/history.html
多くのバスが被災して輸送力が足りなかった時代。
工場には軍用トラックの未組立パーツがありました。
それでトレーラートラックのトラクター部分を作り、荷台の代わりに長~~いバスボディーを牽引させるものの出現しました。
トレーラーバスです。
写真は日野自動車が1947年に発売したトレーラーバス
定員はなんと96人ギュウギ
これは客
2人の車掌さんが「おぉらぁ~~い!」と言っても運
収容人数は多かったのですが、運転には牽引
色は全体的にセピアになってしまいましたが、上半
元ネタ写
1950年ごろから朝鮮戦争で被弾したSLや戦車が続々と送られ、修理することでお金が入り、社会がどんどん復興してくると、バスも普通のボンネットバスになっていきました。
写真は福山で撮影した鞆鉄道の定期観光バスとして運行されている1958年式いすゞBX341ボンネットバスです。
ボンネットバスはエンジンルームのせいで定員が少なめという弱点があったので、1960年代に入ると箱型のツーマンバスが普及しました。
こちらもそんな箱型ツーマン車で、京阪バスのツーマン車。三菱車で
昭和40年代に作られたと思われるこのバスは真ん中
車掌さ
関
バス車掌の仕事は結構ブラックだったようで、だんだん車掌のなり手が居なくなり、箱型ツーマン車はワンマンカーに変わっていきました。