レトロ万華鏡

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「アイドル」という言葉が出来始めた頃の草創期の女性アイドル2 吉沢京子

「アイドル」という言葉が出来始めた頃の草創期の女性アイドル。 第2回は吉沢京子です。
1954年東京都板橋区生まれ、明大中野高校卒業のの映画デビューは1967年、東宝『燃えろ!太陽』で酒井和歌子の妹役、歌手デビューは1970年リリースのこの「幸せってなに?」です。

月刊平凡や月刊明星に記事が出るし、草創期のアイドルというと岡崎友紀と並んで、必ず挙げられます。

でもなぁ…芸歴を拝見すると歌番組やコンサートより圧倒的に映画やドラマの女優活動の方が多いんですよね。

主題歌を自分で歌っちゃう女優となると後の原田知世と同じ立ち位置ですね。

どちらかというと女優さんですよ。

確定申告の職業欄にも「アイドル」じゃなく、「女優業」とか「俳優業」って書いているんじゃないですかねぇ!?ちょっとご本人に伺ってみたいところであります。
 吉沢さん、演技力すごいですよ!
 私が印象的だったのは小学3年か4年の時に学校の映画鑑賞会で魅せられた「父ちゃんのポーが聞える」でした。
ハンチントン病(劇中では小舞踏病となってましたが……)で病魔に侵されて壮絶死する薄幸の美少女役でした。
 最初、家の段差にいちいちつまづくところから始まって、だんだん歩けなくなり、手も麻痺して、最後は心臓も脳も麻痺して止まる世にも怖い病気でした。当時高校生だったと思われる彼女のあまりにリアルな演技で小学生の私は思いっきりビビって、俺もそのうち体中麻痺して死んじゃうかも!って思いましたもん。
 トラウマになったんですねぇ。それから7~8年して高校生になったとき、ついに私もハンチントン病の病魔に侵されて死にました。
夢の中ですけどね。
最初、足が麻痺して歩けなくなり、てもだんだん動かなくなってきました。元西武の広岡監督みたいな冷徹な顔をした入院先の病院の医者に「もうすぐ手も心臓も動かなくなるでしょう」とか冷たく言い放たれて絶望。
親や友人に遺書を書かないと……。
苦労してベッドの脇のサイドテーブルから万年筆と便箋を引っ張り出して「先立つ不幸をお許し下さい!」 と書こうとしてペン先が便箋に触れた途端に……。

あ…ああ!? 
目が覚めました。
両手をクロスさせて胸の下において腹ばいで寝てました。
どうも寝返りをしているうちに両手が体の下に回ってしまって、手を下敷きにして寝るような形となったため、体の重みで両腕に血が通わなくなって痺れた結果、「父ちゃんのポーが聞える」状態に!
全く大マヌケ!
これ、当の吉沢さんが聞いたら爆笑するでしょうねぇ。
「あ~~ら、私、そんなに演技上手かった?」なんて言われて笑われそう。
まいったねぇ。ったく。
でも吉沢さん、罪作りですよ!クソガキを思いっきり演技でビビらせたわけですから。

そういうわけで、草創期アイドルに名前を連ねてはいますが、私は彼女を大物女優だと思ってます。