丸顔のドジな馬!
俺はドジだ!俺はドジだ!俺の名前は土支田!
みんな素人の葉書職人の書いたネタです。
ニッポン放送の夜9時40分から50分までの10分間、曜日毎にコーナーを変えてやってました。
ネット局もありました。
その中でRCC中国放送は10分遅れの9時50分からでしたね。
夏はナイターでよく潰されました。
毎日欽ドンのギャグで面白かったヤツは翌日学校でネタにして遊んでました。
それだけに野球中継延長はムカついてました。
あるとき、中国放送は10分遅れだ!って誰かが言うから、ナイター延長の際は、RCC中国放送にダイヤルを合わせてました。
俺の名前は土支田と丸顔のドジな馬はドジな奴コーナー。
欽ドンや、お前は週休二日制は確か謳い文句でいらっしゃいだったと思います。
他には
レコード大作戦
(三段落ちみたいなコントのオチ部分がレコードのコラージュ)
値切りの条件
(「おじさん、プラモデル 安くしてよ」「じゃあ、その代わり設計図入れないよ〜ン」……みたいにまける代わりに変な条件を付ける)
ああ、勘違い
(ボケとツッコミのネタ)
わ〜いシリーズ
(「わーい、僕の父ちゃん、情報通なんだぞ!」「わーい、僕の父ちゃん、筋肉痛なんだぞ!」みたいな感じのコント)
途中度々コーナーの改編がありましたが、だいたいこんなのでした。
欽ちゃんこと萩本欽一さんには付き人兼構成作家のパジャマ党なる団体が付いていて、度々いじられてました。
欽ちゃんの芸風ってよく練った笑と相方やお客さんいじりでしたから、それが見事に反映されてましたね。
常連葉書職人にあの永六輔さんやアホの鶴間がいました。
アホの鶴間ってのちに有名な放送作家の鶴間政行さんになりました。
パジャマ党自体後々大物放送作家のお歴々を輩出してますから、凄いブレーンだったんですよ。
ラジオの欽ドンは私が高校2年に上がる1979年の春に終わりました。
私も小学生のときに葉書書きましたよ。
「母ちゃん!紙ヤスリないよ!」
「父ちゃんの髭で我慢しな!」
名前も読んでもらえませんでしたね。
小学生の感覚的、ストレートなギャグは大人には通じませんでした。
写真は欽ドンのテーマ曲のジャケット。
一緒に写っているのは初代アシスタントの宮崎文子アナウンサー。