似而非カラーシリーズも1960年代に入ってきました。
今回からジェット旅客機編です。
コンベア880
1961年に3機、1962年に2機、1963年に3機購入し、1966年に日本国内航空から1機リースで入手、合計9機が導入されました。
最大運用限界マッハ数0.89を誇る当時としては最速のジェット機でしたが、エンジンがうるさい、エンジンや電装系を中心に故障が多く、操縦が難しいというかなり厄介な飛行機でした。
実際に訓練飛行中に3機が墜落、1機が小破するという状況で、高度経済成長でジェット旅客機の需要が伸びていた時期にキャパシティーも不足。
そんな状況から現場で嫌がられ、1971年までに全機が退役しました。
DC-8
DC-7の後継機で、1958年に初飛行をしたダグラス社初のジェット旅客機です。
1961年の飛行テストではが52,090フィートという民間航空機の高度記録を達成。
そこから降下角度20度で急降下したところ、高度41,088フィートでマッハ1.021の速度を記録。
旅客機として初めて音速の壁を越えました。
大韓航空はライバルのボーイング707を導入しましたが、JALでは長年のダグラス社の実績と当時運航技術や機体整備で協力関係にあったユナイテッド航空が採用したという2点により1955年にDC-8導入が決まりました。
1960年に1機目がFUJIと命名されて導入されたのを皮切りにボディーを長くストレッチしたー61、-62も含め合計60機も導入されました。
1987年12月31日に、DC-8-61(JA8046)がラストフライトを行い全機が退役。
コンベアとは違い27年間にわたり、JALの主力機となりました。
第1号機にFUJIという愛称があったことであれ?っと思われたことでしょう。
実はJALはこのDC-8まで1機1機に愛称をつけていました。
よど号ハイジャック事件のよど号はボーイング727でしたが、こちらも愛称あり。
このDC-8は私も乗ったことがあります。1970年の大阪万博の帰りに「帰りは飛行機がいいな。できればJALに乗ってみたい!」とおねだりをしてみたところ、父が帰りをJAL便にしてくれました。
ナローボディーに4発エンジンは実に優美であとで「空の貴婦人」なるあだ名があることを知りました。
鉄道ヲタクの間ではジャンボ機が大きくて逞しいC62になぞらえられたのに対し、DC-8は貴婦人の異名をもっていたC57に例える人がいましたねぇ。
そうそう。
青赤鉛筆みたいな紺と赤の塗り分けに鶴丸というドラマのアテンションプリーズやスチュワーデス物語でおなじみのカラー、このDC-8からです。
初回注文のわずか4機にこのカラーリングを発注したため、ダグラスではたった4機に特別塗装か?と驚いたそうです。
DC-8導入にはそれだけJALは力を入れていたわけですね。