今回のお江戸でござるは農民です。
写真は脱穀したコメからごみを取り除く作業をしている農民です。
でもその後の研究でそれは誤りだったとされています。
士、農工商が正解だったと。
農民と町人(職人と商人)に階級の差がなかったとか。
実際に農民の次男坊、三男坊が職人や商人に奉公に出されることは珍しくなかったようです。
農民は江戸時代の人口の八割。
飢饉のときは確かにコメを武士に取り上げられて食うや食わずだったって図式が成り立ちますが、豊作ならコメは余ります。
二割の武士と町人が食べきれるわけではないし、海外輸出もしていません。
なのでそのコメは農民の口の中にGO!です。
コメは売り物で現金収入だから、雑穀を混ぜていたわけで、生活に行き詰まって雑穀メシだったわけではありません。
年貢は五公五民といって収穫したコメの半分を取り上げられるとされていました。
しかし実態は収益性の高い作物を取り入れるなど効率化が進んでいました。
加えてわらじや縄やむしろや蓑などの製造販売などの副収入もあり、実際の税率は2割程度だったようです。
飢饉のとき以外はしっかり食べていました。
また、下級武士の中には郷士といって農民を兼ねている人たちもいたので、身分制度も割とファジーだったみたいです。
農民が搾取されすぎて困窮していたって話はどうやら明治時代の薩長藩閥政治が軍事クーデターを正当化するために流したガセネタだったようですね。
今回の元ネタ写真はこちら→
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